2017年月報11月号巻頭言「神の業に目を開く」

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマの信徒への手紙1章16節)

9月19日より一ヶ月間、ビザの更新のために日本に行って来ました。東京、神奈川、京都において宣教活動報告会を開催し、シカモア教会の宣教を日々祈り、支えてくださっている多くの方々に、過ぎた2年半の報告をしてきました。

私の報告の中で、最も多くの反応をいただいたのは、シカモア教会の礼拝のあり方に関する報告でした。シカモア教会では、礼拝の司会者について資格を問うことはありません。教会員でもない方にも、クリスチャンでもない方にも、礼拝の司会をしていただいています。しかし、日本においてはそのような礼拝のあり方は実に珍しく、基本的には教会役員か牧師が司会を担うという形式が多いのです。それは、教会の伝統や慣習、あるいは神学的理解に基づく「常識」であると言えるかもしれません。

その意味で、シカモア教会の礼拝のあり方は、多くの教会の「常識」を覆すものであるのです。しかし、私は大胆に、喜びを持ってこの報告をしました。なぜなら、そうした「常識」を覆すようなシカモア教会の礼拝の中から、確かに新たな信仰に生きる人が起こされ、受洗者が生み出されているからです。

信仰とは、人間の業ではなく、神の業によって起こります。つまり、シカモア教会の礼拝の中から信仰者が新たに起こされるということは、確かに私たちの礼拝に、神の業が現されているということなのです。それはまさに、「福音(良い知らせ)」です。パウロは、人間の業に目を向けるのではなく、神の業に目を向けることの大切さを説きました。そしてそこに現される福音を、恥じることなく大胆に語りました。

人間が築いた伝統や慣習、神学に規定された道を歩むのではなく、それらの「常識」を超える神の業に目を開いていくこと。そこでこそ私たちは、計り知れない神の大きな恵みにまた気づかされるのです。

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