2018年月報11月号巻頭言「つながっている」

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(ヨハネによる福音書15章4節)

ある日、美しく色づいた秋の木々を見つめながら、山を散策していた時のことです。その景色の美しさに魅了されながら、ふと、自分が踏みつけている落ち葉の存在に気づき、その命の儚さに思いを寄せたことがありました。「あんなに美しく色づいている葉も、地に落ちれば踏みつけられる。なんて可哀想な運命なのだろう」。そんな風に思いました。

そして、ヨハネによる福音書15章の御言葉を思い出しました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている…」。この御言葉を通して、よく次のようなメッセージが語られます。「イエスという木につながっていることがどれだけ大切なことか。そこから離れるならば、私たちは落ち葉のように踏みつけられ、虚しい運命をたどることになる。」

しかし、よく考えてみれば、イエス自身もまた多くの苦難を受け、人々に嘲られ、踏みつけられ、十字架に架けられて殺されたのです。イエスこそ、この落ち葉のように、虚しい運命をたどった方であったのです。しかし、そのイエスは復活をされて、踏みつけられるような虚しさの中にも、新たな命を生み出していくための希望があるのだということを示されました。

思えば落ち葉も、ただ踏みつけられて終わるのではないのです。落ち葉は踏みつけられ、粉々になっても、やがて土に還り、新たな命を生み出すための良い土となるのです。落ち葉の運命は決して終わりではなく、無意味でもない。虚しいのではなく、尊いのです。

「わたしにつながっていなさい」という御言葉は、「イエスから離れると、虚しい運命をたどることになる」という脅迫的な御言葉ではなく、実は、「人々から嘲られ、踏みつけられ、多くの苦難を経験しても、そこからイエスが復活の喜びを得られたように、イエスにつながっていることを通して私たちも、イエスと同じ将来の希望を受けることができるのだ」という、慰めと励ましに満ちた御言葉なのです。

落ち葉のように踏みつけられたり、社会という木から振り落とされるような経験をしようとも、私たちは決して虚しさを感じません。イエスにあって、どんな日々も尊い日々へと変えられるのだと信じるからです。

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