2018年月報7月号巻頭言「大切な場所」

「天にある者も地にある者もキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(エフェソの信徒への手紙1章10節)

毎年5月最後の日曜日は、初代牧師大久保真二郎の墓前にて礼拝をささげています。毎回墓前礼拝をささげるたびに思うことは、今日のシカモア教会があるのは、厳しい時代を歩んで来た信仰の先達たちの歴史と、そこに絶えず注がれて来た神の恵みがあったからこそなのだということです。墓は私たちに、大切なことを想い起こさせます。過去と現在の歴史を繋ぎ、天に召された者と地にある者とを、神の恵みによって分かち難く結び合わせる特別な場所。それが、墓なのです。

今日の社会において、墓というものは大抵の場合、私たちの日常から少し離れたところに置かれています。しかし、伝統的に墓というものは、日本のお寺の境内にあるように、教会においても教会の敷地内に置かれていることがほとんどでした。何百年もの歴史を持つヨーロッパの教会などには、今も教会の地下に墓地が備えられているところも多くあります。そのような教会では伝統的に、毎週日曜日の礼拝をささげるたびに、先に天に召された者と、今を生きる者たちとがキリストによって一つとされ、共に礼拝をささげていることを覚えるのです。実際礼拝とは、そこに墓地があるかないかに関係なく、天に召された者と今を生きる者とがキリストにあって一つにされる空間であるのです。そのことを、上述のエフェソの信徒への手紙は告げています。

シカモア教会の敷地に墓地はありませんが、私たちがささげる礼拝もまた、天に召された者と今を生きる私たちとが、キリストにあって一つとされていることを想い起こす時なのです。私たちは礼拝の中で、先に召された愛する人々のことを覚え、彼らがキリストによって永遠の命に結ばれていることを想い起こします。そして、彼らに永遠の命を与えてくださったそのキリストが、今や私たちと共に生きておられることを覚えるのです。キリストは、天にある者にも地にある者にも等しく関わっておられる。このことを通して私たちは、天にある者と地にある者とが一つに結ばれていることに気づかされるのです。毎週ささげる礼拝という空間、そこは私たちにとって、大切な墓と同じように、特別で大切な空間であるのです。

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